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本作長義と「山姥切長義」の呼び方と山姥切国広の模作元と見ることについて

「山姥切長義」の呼び方は、ゲームが唐突に出してきたものではありません。
主に昭和期において刀剣研究家が「山姥切長義」の呼称を用いており、その対象は間違いなく本作長義です。
ただし、徳川美術館では所蔵している折紙と蔵帳(江戸時代の所蔵目録)を元にその呼び方を否定しています。
ゲームでの実装以来、ちょこちょこ混乱している方を見かけるのでさっくりとまとめてみました。

徳川美術館側の主張としては、そんな名前で呼んだ記録も、それにつながるような記述もない、ということですね。
徳川美術館所蔵 刀剣・刀装具』という図録の中で、蔵帳の記載変化から読み取れることの例として長義をあげています。
徳川美術館所蔵 刀剣・刀装具 - 徳川美術館オンラインショップ THE TOKUGAWA ART MUSEUM ONLINESHOP
(今行われている展示でも、「うちではそんな呼び方してません」の姿勢を明確にしています)


主に昭和期の研究者がそう呼んだことについては、明確にそう呼んでる例が『寒山小論文集』の「国広大鑑補遺」にあります。

 一説に山姥切の号は、元来はこの長義の刀につけられた号で、信州戸隠山中で山姥なる化物を退治たためと伝え、その写しであることから山姥切国広の号があるという。(中略)
 山姥切長義の写しであることについては、なんら触れるところがないが、現存する長義に比べて見て明白である。
昭和44年 佐藤寒山寒山小論文集』二〇六頁

(小論文の初出は刀剣美術40号なんですが、この部分は後から書き足された分です)

昭和52年の横田考雄『小田原の刀剣』も、この呼び方を引き継いでいます。
最近の例だと「真剣少女の日本刀展」で展示された刀で、八文字長義の写しと言われてるけど本作長義のほうの写しでは?という刀のキャプションで「山姥切」表記がされていたようです。(撮影可能な展示だったそうで、google検索で「八文字長義」と入れると該当展覧会でのキャプション含めて写真が出てきます。文脈から指してるのが長義のほうだというのが明確です)

私は徳美入りびたる人間だし、資料漁った上でこの呼び方は否定的にみてますが、ゲーム以前、主に昭和の頃に俗称的にそのような呼び方があったのは事実です。
(逸話含めた記述変化の話はこちらの記事でやってます)
観測範囲だと昭和3年と昭和29年時点で「号 山姥切」が指すのは山姥切国広で、37年時点で長義に逸話ありとする本が出てくる感じ。


で、もうひとつ。
本作長義を山姥切国広の模作元とすることについて。
こっちは徳美さんも否定せず、若干婉曲的な表記ではありますけど図録にも書いてます。


山姥切国広についておそらく一番古い記録と思われるものが、大正9年の杉原氏押形です。
この時点で「備前長義とよく似たり、長義を写したるか」と書かれています。
この押形は周辺の文字部分含めて新刀名作集に掲載されているので、国会図書館デジタルコレクションの送信対象になっている図書館に行けば見れるんですが、作風解説と銘だけ乗せたバージョンが『新刀押象集. 上巻』95コマにものっています。
新刀押象集. 上巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
この時点では「写したるか」と断定していない書き方なので、特定の何かを写したというより作風模写的なものを想定してるんではないかと思います。
(国広の作品にはそういうの多いので)
作風模写的な長義写しであることについては、特に疑問を挟む必要はないんではないかと思います。
本作長義だけ見てるとあれですが、山姥切国広は、伝長義とかされてるような刀と刃文とか雰囲気とか結構近いと思うので…。

刀で言ってもよくわからない人でも、田中圭一先生の漫画見たら手塚治虫を狙った絵だとわかりますよね。
ここで言う作風模写的な写しは、そのくらいのラインの話です。

では、山姥切国広が本作長義の写しであると指摘されたのはというと、いつなのかは不明ですが、上記とおなじ杉原氏が講演の中で語った内容が、『新刀名作集』の中で書かれています。

故杉原祥造氏は國學院大學に於ける講演中、此点に言及して曰く、此時より以前(原注:北条家の長義を摺上げ且つ長尾顕長の為めに長義写しの一刀を鍛えし時を云ふ)の作刀には相州伝見えず、此時より以後のものに至って、始めて相州伝が加味されしものの如し。之れによって観るに、国広は北条家の長義を磨り上げ且つ其長義を顕長の為めに写せしことによって、相州伝の鍛法を会得せしめ為め、其作風に一輔機を割せしものと思ふ

実は杉原氏、『日本趣味十種』の中でも銘に間違いはあるものの同じ表現をしています。
杉原氏は大正九年に見たものに対して、大正十三年までには「北条家の長義を摺り上げたものを写した」と見なしていたようです。摺り上げたうえで写したという書き方なので、ここで言う「北条家の長義」は他でもない尾張徳川伝来の本作長義であることが補強できるかと思います。
(なお刀剣雑話なんかの記述を見る限り、大正の頃山姥切国広は世間的に認知はされていなさそうなのですが。)

以降、山姥切国広を本作長義を写したものとみることに対して、特に異論とかは観測していません。
二つの刀はあんまり似てないとよく言われるんですが、国広の刀だと「形状の特徴から特定の刀を写しているのが明確だけれど細かい部分は似てない」例が他にもあるんですよ。包丁正宗写しが…。(京のかたな図録を持ってる人は164p参照)
「国広の写し物は模作元そのままではない」「山姥切国広は作風模写的な意味で長義写しである」「山姥切国広と本作長義は形状の特徴が一致する」「山姥切国広と本作長義は銘の中に長尾顕長の名がある」
これだけのポイントを踏まえたうえで、本作長義を山姥切国広の模作元とみるのは十分妥当性のある推測かと思います。
(刀剣関係の仮説推測って結構無茶なものも多いので、むしろこれものすごく筋のとおった推測だなというのが感想です)

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