とある歴クラ見習い審神者の備忘録

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天正十八年国広銘の刀の、主に戦前における認知の話(刀剣プレゼン会資料再録)

みつ希さん主催の刀剣プレゼン会に参加してきました。
とうらぶクラスタが集まって、各自が刀や刀工などについて自分が調べたことを発表するという趣旨の集まりです。
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感想なんかも書きたいんですが、まずは自分自身の発表資料と読み原稿だけ載せておきます。
スライド中の画像は、著作権保護期間満了したものを使用しています。
(スライドテンプレートはLibreOfficeのものです)
とうらぶクラスタだけの間でやったものであるため、若干ハイコンテキストな部分があります。

「山姥切国広が「最高傑作」評価をされるまで
―明治~昭和期における天正十八年作品の認識変化―」

セツカです。よろしくおねがいします。
選んだテーマは、山姥切ズを中心とした国広の天正十八年銘がある刀剣作品の認知についてです。
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近現代において刀工国広の作品について語る場合、その生涯がどのようなものであったのかという話が重要視されてきました。
そして天正十八年という時期は、比較的古い論の頃からターニングポイントとして語られてきました。
対象となるのは山姥切国広と徳川美術館の本作長義以下略、それから足利市の布袋国広と通称される足利学校脇差です。
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このうち、足利学校脇差については、江戸時代の刀剣書である『本朝鍛冶考』に掲載されているため、存在は比較的古くから知られていました。
ただし、実物が知られていたわけではありません。
大正八年に高瀬うこう氏という、当時の刀剣雑誌を主催する立場にあった方が書いた国広論には「足利学校に住たりと云、此学校にありても刀を鍛えたりと云説あれど、其実物の存したるを見ず、」とあります。(「堀川国広論」『刀剣と歴史(一〇六)』三頁)
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実物を見ていないとなると、疑う人もいるわけです。
当時の印刷だと、肉筆の絵図や写真ほどのニュアンスは伝えられませんし。
ちょっと時期が巻き戻りますが、明治の終り頃に、今村長賀と別役 成義(べっちゃくなりよし)という人たちが刀剣について連続講義を行いました。
その中でこの足利学校打ちについて「然るに是は如何なものであらうと少し疑念があったが、此国広が足利学校に居ったと云ふ証拠が一つ出た。それは尾州徳川家の長義の刀であった。」とこう来るんです。
「証拠が出た」というのであれば、それ以前において、本作長義以下略は知られていなかったものと思われます。
山姥切国広についても同様に知られていなかったと思われます。知られていたなら長義を証拠にする必要はないわけですから。
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川口陟(のぼる)という方、こちらも刀剣本を多数出している方なんですが、大正九年に出した文章で国広の足跡について語る中で、本作長義以下略と布袋国広を挙げたあとで「この他に好材料がありませんから、右の二つの刀によりて私は研究を進めて行くのほかはありません」と書いています。(初出『刀の研究』)
山姥切国広が知られていたら一緒に挙げてしかるべき場面ですので、やはり知られていないと考えられます。
大正十四年に『刀剣雑話』という単行本に文章を再録していて、あちこちに加筆をしていますが、この部分に変更はありません。
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山姥切国広について『最高傑作』などと評価されていますが、少なくともこの頃は知られていない以上その評価はなされていないわけです。
ではどんな作品が名品とされたかというと、二字銘の作品に良いものが多いと言われていました。
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その前にも前後の流れからそうだとわかる記述の本はあるんですが、銘が違うし浅く広くの本なのであまり広まらなかったのではと思います。
ただこの時点において、作風の転機として評価しているが、「最高傑作」という評価ではありません。
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で、この認識がいつからかはわかりませんが、戦後山姥切国広は「焼失した」と誤認されてきました。
よい作品だったのに惜しいという程度の書かれ方しかされていません。
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そして昭和三十五年に再発見がされました。
昭和37年、『堀川国広とその弟子』に再発見経緯が掲載されまして、その中で本間薫山氏の談として「この作こそは彼の一生涯中自らかえりみても最も記念すべき、そして誇るべきものであろう。」という文をのせています。
このあたりが「最高傑作」という評価の始まりではないかと思われます。
※具体的に「最高傑作」という表記は佐藤寒山氏の著書に出てきます。
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結論。
今著名な作品でも、昔から同じように評価されていたとは限らない。
以上です。ありがとうございました。
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(ちなみに、事前リハーサル時は5分におさまったのですが、当日はオーバーいたしました。反省。)
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