とある歴クラ見習い審神者の備忘録

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徳美「合戦図」と土曜講座「 文化財を守るということ」

いつものごとく徳川美術館に行ってきました。
今の展示「合戦図―もののふたちの勇姿を描く― 」は特別展ということで、友の会だと会期中1回しか入れないという制限があります。
友の会 | 会員制度、活動支援基金 | 美術館について | 名古屋・徳川美術館
でも土曜講座を申込していると、土曜講座参加日はそれに含まれないというのがありまして…。
それでも今回の会期中、いけるのは3回だけなので、ちょっと濃度高めな鑑賞をしてまいりました。
(年間費用お高めな賛助会だとこの回数制限がなくて、なおかつ図録いただけたり、内覧会があったり、特別な鑑賞イベントがあるらしいので、来年度はそちらに切り替えることも検討…。学芸員さんからコアなお話を聞ける機会も多いみたいですし…。すでに何名かの刀剣クラスタがこちらに入った模様…。)
賛助会 | 会員制度、活動支援基金 | 美術館について | 名古屋・徳川美術館

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まずは常設部屋。
常設と言いつつ、結構な頻度で入れ替わるんですよね…。
今回、第一室には、あの有名なしかみ像が飾られていました。
ロビーに顔出しパネルがありましたけど、あれの元です。
こういうしかめっつらしたやつです。(権利面が怖いので著作権保護期間終わった本から引用しますよ。)
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岡崎市史. 別巻中巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
これの実物、案外小さいんですよ。
売店でクリアファイル売ってるんですけど、それとかわらなさそうな印象。
有名な絵ですし、見たことない人はぜひ一度

今は、他のところではあんまり見ないんじゃないかなという拵が出ています。
尾張徳川十六代義宜公の大小拵なんですけど、小さいんですよ。
フォーマルな蝋色塗ではあるんですけど、大は私が手を広げたときの親指~小指の幅×4よりも短いのです。
この拵は制作時期が元治元年(1864年)12月から翌年1月なのだとキャプションにありました。
義宜公は安政5年(1858年)5月生まれで当主就任が文久3年(1863年)ということで…就任後間もない当主のために作ったわけですね。
それもお子様サイズ。満6歳ですよ。現代とは体格差あるでしょうけど小柄な小1くらい…?
なお、中身として使われていたのは、太刀 外藤、短刀 長谷部国重 とのこと。
Wikiとかだと元治元年に当主就任とかなってますが、徳美の図録と今日の講演では文久3年就任で解説してました)

あと、小さいほうの図録にも出てくる虎徹、妙なバランスと長さですけど、あれ生ぶであのバランスだったんですね…知らなかった。


特別展「合戦図―もののふたちの勇姿を描く― 」は、蓬左文庫が主に戦国の合戦図と合戦の話、徳美の展示室はもっと古い合戦を描いた図が中心になっていました。
冬の陣図のデジタル復元画は撮影&SNSOK。
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ちょっとピント甘いんですが、すごく細かいんですよ。
図録にも掲載されているとはいえ、全体像なので、気になるポイントがある方はぜひご自身で撮影を!
なお、視力が悪い人は単眼鏡を持っていくなり、カメラ使って拡大するなりしたほうがよいです。
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正直、合戦図については私コメントできるほど知らないのですよ。
図録を買ってきたのでこれから熟読して、また次のときにじっくり見ようと思っています。

で、合戦図と合わせて出ている、参考品がいろいろおもしろいなと思いました。
蓬左の第一室右手側のケースに、普段の徳美ではあまり見かけない、民俗資料館のような品が並んでいます。
たいまつと鎌・鉈などなど。
鎌と鉈、たぶんそのあたりの資料館の江戸末期~明治大正の頃のやつよりきれいに見えるんですけど、尾張の初代の頃のものだそうで…
わざわざ保存するようなものでないからこそ、残っているのが貴重なブツです。

同じく参考品な鎧、徳美展示室に三領あったんですけど、こちらもある種とてもわかりやすい…。
摸索ではあるものの、真四角な箱を着てる感じの平安末期スタイルと、胴体に沿った形になって動きやすそうな室町スタイルの鎧が展示されていました。
室町側のほうは、同じように胴がしぼってあるんですけど、袖鎧の肩上がカーブになったタイプと大鎧と同じように平たいタイプと並んでいまして、こういう違いも面白いです。
(カーブのタイプ:ばみちゃんの袖鎧みたいなシルエット、平たいタイプ:薬研の袖鎧みたいなシルエット。ディテールはどちらも小札重ねたor重ねた風デザインでしたが。)


今日の大きな目的は土曜講座「文化財を守るということ―徳川美術館の美術品疎開―」でした。
今回の講師は研究員の香山 里絵氏。
美術館の学芸員さんとはすこし違う立ち位置の方なのだそうです。
金鯱叢書では明治期~戦時中という、近現代の話を扱った論文を書かれています。
金鯱叢書 | 出版・刊行物 | 調査・研究・教育 | 名古屋・徳川美術館
今回のテーマは最新である第46輯に掲載された「徳川美術館の美術品疎開」の話を中心としているんですが…「物がたどった歴史」の話に興味がある層にはこれ、かなりきますよ…。
文化財は守った者がいるから残っているのだ」という話はちょこちょこ耳にしてきましたが、それを実感できる内容です。

いつものごとく、ご本や論文の紹介と呼べる範囲でご紹介を。
まず、尾張徳川第二十一代徳川義宣氏のご著書から、昭和31年頃の徳川美術館について書かれた話が登場しました。
(名前が紛らわしいんですが、こちらは戦後に活躍された方で徳美の前の館長さんです。)
該当のお話は『徳川さん宅(ち)の常識』にも収録された「化け物屋敷とテーダ松」という文章だそうです。

紹介された内容から察するに、タイトルの「化け物屋敷」が徳川美術館のことなのかな…?
戦争で徳川美術館が受けた被害は大きく、戦後十年が経過した昭和31年の時点において、仮の修復しかなされていないような状況だったのだそうです。

私は三河の人間なのであまり知らなかったのですが、名古屋は大空襲があって、かなり大変な状況になったのだそうで。
三河にいると、豊川海軍工廠の話のほうが身近になってしまうので、名古屋まではあまり知らなかったのですよ…)
徳川美術館も、10mと離れていないところに爆弾が落ちたとか、付近の茶室が一つ吹き飛んだとか…
(そして、後から出てきた被害はそれどころではなかったし、あと一つ何か条件が変われば、今の徳美は存在していなかったかもしれないという衝撃も…)

で、徳美設立当初の経緯とか、敷地の話とかがここで挿入。
(気になる方は金鯱叢書の42,43にある香山氏の論文を…)

肝心の疎開についてなんですが、もう詳しいことは論文読んでもらうとして

  • 相当の量の什宝が、長野県上伊那に疎開した。
  • でも尾張の什宝全体から見たら疎開できたのはほんの一部だけで、あとは美術館の収蔵庫に残った
  • 「美術館収蔵庫に焼夷弾が落ちてめり込んだが不発で済んだ」という談話あり

…はい。めちゃくちゃぎりぎりじゃないですか?
疎開対象となった品も、国宝・重要美術品の中でも「特に貴重なもの」のみであり、梱包・運搬にも制限がある状況。
セットになっているような美術品も、本当に重要な部分だけを選んで疎開したのだそうです。
初音の調度なども、半分程度は美術館の収蔵庫にあるまま、空襲を受けたのだそうです。
それも規模が恐ろしいですよ。徳川町(一丁目~七丁目まである)のうち、焼け残ったのはわずか十五軒なのだとか。

なお、今日の講座の中で、疎開した荷物の一箱目の中身リストが出てきたんですけど、論文の中にはないんですよね…
先行研究のほうに実は載ってたりするのだろうか…
(論文を読むと、刀剣もわずかに疎開してたっぽいので、何が疎開したのかちょっと知りたい気も)
あと、疎開先は終戦後、進駐軍の接収が決まり、急いで中身を運び出したとかなんとか…あっさり話してましたが、それも結構な危機というやつでは??

大戦で失われたものの中には、疎開先すら不明なものも多数あり、どれだけ失われたのかすらわからないのだとか。
講師の方からは「文化財を守ってきた歴史」を思ってほしいとの言葉がありました。

なお…余談として印象が強烈だった話。
疎開先の候補として定光寺が上がったそうです。
ただ、そこは湿気が90%~100%で美術品を保管する環境ではないと。
…湿度の記録用紙が残っているそうですw
尾張家の記録魔ぶりはこれまでもいろいろ見てきたけど、そんなところまでか!となりましたw