とある歴クラ見習い審神者の備忘録

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山姥切の逸話を追いかけた話

引き続き、切ったのどっちだよな話を。
もちろん結論はでないですし、逸話自体が紹介されてるのはよく見かけるんですよ。
でも出典書いてないから追えなくて歯がゆい思いをしてる方いるんじゃないかなと。
多分、本当に詳しい方からみたら当たり前なことな気もするけど、素人調べだとたどり着くまでにだいぶ時間がかかったので、まとめておく意味はあるかなと思ってます。

まずは前提事項。
・山姥を切った刀について本科である長義のほうとする説と、山姥切国広のほうだとする説がある。
・本科を所蔵している徳美には、「山姥切」の名につながる史料はない
さくっと検索して出てくる内容ってこのあたりかなと思います。
あとは具体的な逸話の内容も、いつのまにか刀剣乱舞攻略wikiに載ってますね。


ひとまずめちゃくちゃざっくり書くと、山姥切国広のほうが切ったという話は主に福永酔剣氏の御著書、本科のほうが切ったという話は、主に佐藤寒山氏の御著書に出てきます。
両氏ともにビッグネームですね。


まずは山姥切国広が山姥を切ったとする逸話について。
私が初めに読んだのは福永酔剣氏の『日本刀おもしろ話』という刀剣逸話本です。
なんとこの『日本刀おもしろ話』の山姥切の項、逸話本の類にしてはめずらしく、話の出所が本文に書いてあるんですよ!

当時、中央刀剣会の審査員だった杉原祥造氏が、これを拝見して押形をとり、以上のような奇談を書きそえているが、その後の所在は一切不明である。
『日本刀おもしろ話』福永酔剣著 1998年 

なんでこの頃の本でずっと所在不明扱いで書いてるのかは謎なのですが、とりあえず逸話の出元はわかりました。
で、この杉原氏押形なのですが、大きな図書館に行けば見れますよ!
国会図書館デジタルアーカイブで、提携館限定送信ということで、指定された提携館に行って専用の端末を利用すれば見れるんです。
(いえ、ネット上に同じ画像上げてるところありますけど、アウトくさいものも多数載せているから紹介しづらいというか。この話の元については没後の年数も初出からの年数もクリアしてるとはいえ、資料の出典も書いてないですし。)

ということで…件の押形は、『新刀名作集』に収録されています。
手元のメモだと多分125コマ目なのですが、多少ずれてる可能性もあります。
新刀名作集 - 国立国会図書館デジタルコレクション
ざっくりした押形が描いてあって、紙面の左下に「山姥切由来」として逸話がかかれています。
「小原家ノ浪人ニ石原甚〇〇〇〇ト云者アリ」ではじまってます。
(〇表記なのは、崩し字というほど崩れてはいないものの、小さく書かれた走り書きで読みづらいからです。崩し字スキルある方だれか読み解いてください)
ただ、『日本刀おもしろ話』の中で紹介された山姥を切った逸話は、確かにこれに肉付けしたのだなというのは読み取れます。
大正9年十月と書いてあるので、これが逸話の採取日か記録日なのだと思われます。
『日向の刀と鐔』(昭和50年 福永氏)でも同じ逸話を採用していますが、そこでは杉原氏押形の経緯について、杉原氏が大正9年に三居氏(当時の所持者)から聞いた、と書かれています。

杉原氏押形からとわかる逸話紹介のうち、私が観測した一番古いものは『趣味のかたな』誌1号(昭和28年6月)長谷川亮三氏が書いた『山姥切り国広』という表題の、物語調の読み物です。著者の属性はよくわかりませんが、この『趣味のかたな』誌に何度か同じような体裁の物語を複数回掲載しています。


で、もうお一方、佐藤寒山氏。
昭和41年発行の『日本の美術 6 刀剣』では号は元来本科のものであったと書かれています。

山姥切の号は元来は、この長義の異名であったが、それを写したことから、山姥切国広と名付けられたものである。
『日本の美術 6 刀剣』佐藤寒山編 昭和41(1966)

同著者の同時期の本も、何冊か見たところ同じように断定する形で書いていますね。

でも、『堀川国広とその弟子』佐藤貫一 編 昭和37年(1962) だと以下のような表現をしております。(なお、佐藤寒山は佐藤貫一氏の別名です)

この刀は古来山姥切と称しているが、号のいわれはあきらかではない。(中略)
一説に山姥切の号は、元来この長義の刀に付けられた号で、信州戸隠山中で山姥なる化物を退治たためという。その写しであるから山姥切国広と呼びならわしたという。
堀川国広とその弟子 - 国立国会図書館デジタルコレクション

というわけで、こちらでは「一説に」ということで、断定していません。
あと「信州戸隠山」という地名がでてきますね。そして「いわれはあきらかではない」とも…

『刀剣美術』1巻~2013年頃までと、『刀剣と歴史』2巻から2013年頃まで(ただし戦争ちょい前~復刊10号くらいまで+他数冊欠け)確認しましたが、議論とかがされている様子は見つけられませんでした。
(『刀剣と美術』の復刊10号くらいまでというのが、国広大鑑発行前後くらいなので、ひょっとするとそのあたりで盛り上がってる可能性もなきにしもです。あと調査期間資料コピー含めて二日半で目次ベースの調査をしたので、本文に唐突に登場している場合は見落としている可能性あります。)
逸話に関しては、大体昭和3年以降~昭和37年まで調べればよいとわかってるのでちょっと気楽なやつです。
昭和3年より前は、そもそも山姥切国広の存在自体が愛刀家の間に知れ渡っていない感ありまして…(刀工国広の足跡見るのも、天正18年の関連は長義と布袋の脇差だけが登場するのです)

小笠原信夫氏も、『日本の美術 新刀』で寒山氏説を受け継いでいます。
あと、昭和52年の『小田原の刀剣』横田考雄著も、長義のほうが切った説をとり、かつ信州戸隠山中としているのでこの系譜ですね。
(この本は一般流通本というより小田原の郷土本という感じなので、そのエリアの図書館なら持っているかも)

で、こちらの系統の説なんですけど、杉原氏押形のことに触れられていないように見えるわけですが、実際は佐藤氏も、杉原氏押形のことはご存知です。
なぜなら、佐藤氏が携わった『国広大鑑』には件の杉原氏押形が掲載されたのですから。
また、昭和37年の『日本名刀物語』でも「「山姥切」の刀は故杉原祥造氏の遺された押形類の中に粗末な押形があって、わずかにその面影を残すにすぎなかった」とも書いています。

没後の刊行なので遺作なのか生前の記事の再編集なのかわかりませんが、平成8年『日本名刀大図鑑』佐藤寒山著・本間順治監修では「山姥切の号は、元はこの刀の本科である備前長船長義の太刀にこの号があったからで、正しくは山姥切長義写しという意味であるらしい」と書いています。
…これはひょっとすると、同じ押形の逸話を、どちらのものとして解釈したかが違うだけなのかなという疑惑が。
少なくとも長義が伝来した尾張家には、その逸話はありません。物吉やら南泉やらの逸話が盛られたと思しき時期も経由しているので、口伝とかあったならそこで記録に残されてしかるべきと思いますが、それがないなら本当に尾張には逸話はつたわっていないとみるべきかと。
その他の可能性だと、「所持者の誰かが、刀は不明だが山姥退治を行った」か「誰かはわからないが長義の刀で山姥退治を行った」かがひょっとするとあるのかもしれませんが、そんなのあったら誰かが指摘してそうだなと…。

「一説に」表記は、先に「山姥切国広のほうが切った」話が流布している状態で寒山氏自体は長義のほうが切った説をとりたいからそんな書き方にしたのかななどとも。

ちなみに、長義の刀の呼び方については、古い本だと「尾張(尾州)徳川家の長義」呼びが基本という感じです。
刀剣と歴史127号(大正10年4月)の44ページ、QAコーナーで「尾州徳川家の長尾長義も無銘」と言っているくらいが変わった呼び名の観測例ですかね…。
(どの程度一般的な呼び方かは不明ですが、どれの話をしているかはとても明確になる呼び名だと思います)

素人の所感でしかないですが、今見ている範囲の情報だけだと、私も「本科のほうの逸話が後付け」説に一票ですね。佐藤氏の時点で山姥切国広のほうの逸話が無視されていなければ「両方に逸話がある」で納得したんですが。
杉原氏押形の逸話は、少なくとも山姥切国広のものと考えていいと思うんですよ。山姥を退治した話だけではなくて、来歴の話もセットになっているので。
もちろん、いつ成立したとか元になった事実はあるのかとかは別としてです。
(後付けだとしても、刀の譲渡に伴う権威付けか祖先に対する顕彰か、と考えたら特におかしな成立ではないと思います。)

あとこの押形の逸話、歴史方面の頭で考えるなら、「時代が離れた話をもとにした、事実とは言い難い話」ですけど、民俗学方面の頭で考えると「もとになる事実があっても不思議でない話」になるんですよね…
一つ目小僧は製鉄従事者のことであり、鬼は漂流した外国人である。山姥は姥捨てにあった棄民である、みたいな。
学生時代に読んだ本なので不正確だったり最近の扱いと違うかもしれませんが…
そう思ってこの逸話を見ると、怪異譚らしいことってなにも起こっていないんですよね。
妊娠した妻を老婆に任せて薬を買いに行き、戻ってみると老婆が生まれた子を食べていた、だから老婆を切った、というだけのことで…
民俗学系の論考も、また調べたいところです。

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