とある歴クラ見習い審神者の備忘録

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変化していく逸話の例

「逸話があるからといってもその内容が正しいとは限らない」
そういっても、今一つぴんとこない方もいるかと思います。
ということで、今回は逸話が変化した、もしくは新しくできたと思われる例をご紹介したいと思います。


まずご紹介するのは、名物帳にある庖丁藤四郎の逸話。
引用は『詳註刀剣名物帳』羽皐隠史 著 デジタルコレクションの127コマから。

多賀豊後守所持去る處にて鶴の腹の中へ金筋(鉄の火箸を入れ置くと一本にあり)を入置き庖丁を所望しける、
此事を悟り此脇指にて切る、
金筋共に快く切れたり、夫れ故名く

鶴を料理するときに、その腹に異物を突っ込む悪さをした人がいて、異物ごと両断したからその名がついた、という逸話ですね。
(どんな異物を突っ込んだのかについては、引用したもの以外にも写本によるバリエーションがあるようです)

で、次に紹介するのは、名将言行録に登場する、細川藤孝(幽斎)の逸話。
デジタルコレクションにいくつか版があったので、活字が読みやすい『評註名将言行録. 中』菊池寛 著の51コマから引用します。

或時鯉の庖丁あり。えせ者ありて、火箸を通し置きたり。
藤孝、庖丁を押掛け、火箸に当りし時、九寸五分にて抜打に魚版を切り落としたり。
名人は難に望みなづみなきものなりと言ふ

鯉をさばくときに火箸を入れた人がいて、藤孝が庖丁をすすめると火箸に当たったので短刀でばっさりと切った、という内容です。

細部は異なりますが、ほぼ同一の逸話といってよいかと思います。
名将言行録は幕末~明治の本なので、たぶん影響を受けているのはこちらのほうでしょう。
(もちろん、共通の元ネタが他にある可能性もありますが)


似たような例は他にもありまして、一般に家康遺訓として知られる「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し」という言葉。
底本と思われるものは「天保会記」という書物にあるそうで、そこでは「人のいましめ」というタイトルが付けられ、徳川は徳川でも家康ではなく水戸光圀作であるとされているのだとか。
※ただし、光圀作というのも元資料伝聞系で書いてあるやつなので、本当かどうかは?というやつです。文体や内容との矛盾はないようですが。
徳川家康遺訓「人の一生は」について」徳川義宣 『金鯱叢書 第9輯(昭和56年度)』を見ると、各版での差異などが一覧化されています。
レファ協DBにも該当内容を見つけました。
「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし…」この文章の全文が掲載されている資料をさがしています。こ... | レファレンス協同データベース


次に、逸話ができちゃったと思われる例です。
三方ヶ原戦役画像戦役画像、通称しかみ像というやつですね。
三方ヶ原で負けた家康が自戒のために書かせた…と言われていたわけですが、実際その話がくっついたのは徳川美術館ができあがってからなのでは…?という研究がありまして…。
徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎」原 史彦『金鯱叢書 第43輯(平成27年度)』インターネット公開あり
今はwikipediaの記述も、そのあたりの研究を踏まえた内容になっていますね。


最後は、逸話が結び付けられた例。
燭台切光忠についての逸話で、政宗が秀吉のとこから「もーらい」と持ち逃げし、水戸頼房が政宗のとこから「もーらい」と持ち逃げした、という非常にヒドイ逸話を見たことがある方は少なくないかと思います。
戦国ちょっといい話・悪い話まとめというまとめサイトにもあがっています。(こちらのサイト、史料性を問わずとにかく逸話を掲載している性質のところです)
(●∀゚) 「ヤバイと思ったが、欲望を抑え切れなかった」 - 戦国ちょっといい話・悪い話まとめ
で、そのまとめサイトの記事の前半部、政宗が秀吉のとこから「もーらい」の部分の投稿者だという方が苦言を呈されまして。
曰く、出典元の記事は「脇指」とあるので、燭台切ではありえないだろう、と。
私個人の感想としては、本当に脇指と呼べないかどうかは(たぶんその通りでよいと思いつつも)当時そのエリアでの刀脇指の扱いについて調べないとなんとも言えない(たとえどれだけ長かろうと脇指として使っていたなら脇指だし、小脇指サイズであろうとも刀として使っていたなら刀と呼ぶべき)と思うし、なんなら刀取り違えてる可能性考えなくてよいのかとも思うのですが、大本の逸話に、具体的な刀の号は記述がないことも確かなようなんですよね。
であれば、この逸話を無批判に伝来経路として扱うべきでないという指摘はもっともだと思います。
(こういう記述があって、こういう理由で燭台切のことなんじゃない?って仮説として書くならありかな。)
秀吉からもーらい、のネタが登場するのは成実記(伊達日記、政宗記)とのことなので、気になる方は追いかけてみてください。
(というか、てっきり後の時代の逸話だと思っていたら、同時代の方が書いたやつベースでびっくりですよ。刀がどれかはともかく、実際にやらかした話の可能性がある逸話だとは…。文書の内容の検討とかせずに言っているたわごとですが。)

正直、逸話系でこのネタを採用すること自体はある程度仕方ない部分もあるかなとも思うんですよ。
大正の頃の逸話本に、同じエピソードを燭台切光忠とひもづけたものありますし。水戸に渡る部分は別のエピソードを採用していますけど。
英雄と佩刀 羽皐隠史 著(19コマ目から)
とはいえ、まじめに来歴の話するときには検証が必要であるということはかわらないかなと思います。


逸話を楽しむことは悪いことではないし、それをベースに創作することだって悪いことではないです。
けれど事実関係を語るときにはちょっと検証が必要ですよ、というお話でした。

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