とある歴クラ見習い審神者の備忘録

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長尾顕長について

多分クラスタ外かつ刀ステ見てない方には「誰だっけ?」ですよね…

山姥切国広を作刀させたお人です。

歴史人物としてマイナーな部類なので、どう調べたらいいんだろうか?となっている方も多いと思うんですよね。

 

一応お断りしておきますが、これを書いている人間は歴史の専門家ではありません。

この記事は学習発表的なものとお考えください。

手に入りやすい刀剣書の記述だけ追うと、さも顕長さん北条の忠臣みたいじゃないですか。でもそちらから調べても出てこないじゃないですか。

よくよく調べてみると、出てこなくて当然なんですけどね。

足利で歴史ガイドをしてくださった方が、話の枕として、「長尾姓で有名な人物と言えば長尾景虎(=上杉謙信)がいますが」という導入をしていましたが、そちらから調べたほうがまだ近かったんです。

 

今回のメイン資料は『館林市史通史編1『館林原始古代・中世』』です。

市史編さんセンター | 館林市公式ホームページ

館林市が頒布していますが、全く薄くなく、鈍器のようなハードカバーです(笑)。

関東の方なら近隣地域の郷土史として図書館に入ってる可能性があるので、そちらで見る方が楽かもしれません。

316ページから385ページが該当箇所です。

(以前に天下人の城の応援団記事を書いたときには簗瀬大輔氏の講演会「足利長尾氏と両毛地域の戦国」の資料をベースに書いていましたが、その講演会の内容は館林市史からピックアップして解説したもの、ということで、大本を入手いたしました。)

 

そしてサブ資料として、黒田基樹氏の『関東戦国史』。こちらは北条と上杉の対立を軸にした本ですが、途中ちらほらと長尾や、かかわりの深い家のことが出てきます。

 

国会図書館の図書館限定送信資料に『足利市史』というのもありますが、こちらはあまりおすすめしません。昭和3年とそこそこ古い本のうえ読みづらいので…。

更に東国の戦国史って、近年の研究の進歩がとても大きいようで、「峰岸純夫氏が整理するまで関東の歴史は体系だった歴史として扱われていなかった」というような発言が前述の梁瀬氏の講演の中でありました。

そしてこの峰岸純夫氏という方、2017年に新しいご本を出している、現役の研究者さんなんですね…

(講演を聞いた時点では、まさか現役の方だとは思ってもいませんでしたよ)

…前に調べたときには気づかなかったですけど『近代足利市史』というのもあるんですね。「長尾氏の治世」という項もあります。こちらは後日確認してみます。昭和52年発行なので今と比定が変わってるところもあるでしょうけど、何かおもしろい内容もあるかもしれませんし。

 

研究はどんどん変わっていくものというの、実は今回のメイン資料だけでもよくわかる話でして…

館林市史の346pには、それまで天正二年のものと思われており、2007年発行の資料編2でもそう扱われていた書状が、天正四年のものと比定されたということが出てきます。

もう一冊の資料である関東戦国史の文庫版あとがきにも、2011年発行時点から2016年の文庫版発行時点までに著者が支持する論が変わった部分について記述がありますし。

今ここでまとめた内容が、実はもう古すぎるよとなっている可能性だってあるわけです。

創作の材料にするだけなら多少古くてもいいと思いますが、まじめな目的の方はちゃんと最新動向チェックしてくださいね。

 

…気を取り直して、本題へ。 

 

長尾氏は、元々上杉氏に仕えた一族です。

長尾氏は、研究の上で「国衆」や「戦国領主」などとよばれる立場です。刀ステでは「国人」のほうの言葉を使っていましたね。微妙なニュアンス差はあるものの、ほぼ同義と考えてよいようです。(国人領主で調べるといろいろヒットします)

戦国大名の旗下に入らなければ、領土を守れない立ち位置ですね。

 

長尾氏には複数の系統があり、山内上杉氏の家宰を代々務めた鎌倉長尾が惣領家です。鎌倉長尾が後に足利長尾となりました。

 

簗瀬大輔氏の講演会では、だから足利長尾は惣領家なんだよーというノリだったと思いますし、週刊ビジュアル戦国王57号(2017/7/11)に掲載された足利長尾についての記事でも嫡流であると書いています。

でも上杉謙信関連の本を読むと、惣領家は(上杉謙信の出身である府中長尾と関係の深い)白井長尾が足利長尾から継承した、とか書いてあってちょっと混乱するんですよね。足利長尾は系図のすみっこにしか出てこない感じで。

流れを追えばなんとなく想像はつきます。

  • 享徳3(1454)年(関東の戦国時代の始まりといわれる)享徳の乱の勃発理由となった事件で鎌倉長尾の当主である実景が死亡
  • 次代当主である景人は家宰職になれず、総社長尾と白井長尾が家宰職を務めるように
  • 景人が足利荘の代官に任命→足利長尾氏の誕生
  • 永生9(1512)年頃、足利長尾の景長が山内上杉の家宰に就任
  • 以降、足利長尾の憲長、景長(別表記として当長:顕長の先代)が家宰職を継承
  • 天文21(1552)年、山内上杉憲政は北条に敗れ越後に逃亡。(足利長尾は景長=当長の代)

戦国の始めの時点で、家宰職は総社長尾と白井長尾にうつっているので、それをどう解釈するかによって惣領家がどこかという話が変わってきているんじゃないでしょうか。たぶん。(一応、上杉憲政が越後に逃げてからは白井長尾に棟梁の地位が与えられています。)

あと短い間に二人「景長」が出てきてややこしいですね。景長→憲長→景長(別名として当長,政長)→顕長の順です。ちょっと面倒なので、以降は「当長」の表記を使いたいと思います。

(なお、黒田基樹氏は当長と政長を別人として考える説をとっています)

 

  

長尾顕長は足利長尾の系統です。顕長の先代である当長から館林に居住したということで館林長尾と書かれることもあるようです。

上杉謙信の出身は府中長尾という別の系統です。

 

 とりあえず、上の箇条書きの続きから。

  • 山内上杉憲政の逃亡により、長尾当長は北条配下となった
  • 憲政は白井長尾に棟梁の地位と、没収した当長の所領を与えた
  • 永禄3(1560)年、長尾景虎(謙信)から当長に、越山(関東攻め)の協力を求める書状。当長は呼応。

いくら上杉の重臣といっても、山内上杉憲政が負けた後に頼ったのは越後長尾だしなあと思っていたら、「足利長尾を頼ろうとしたけれどできなかった」ということのようです。
『関東戦国史』には「憲政は平井城から没落したあと、東上野の新田領横瀬氏や下野足利城の足利長尾正長を頼ろうとするが(中略)入城することができず、やむをえず北上野の白井長尾憲景を頼った。しかしここでも反撃の体制を整えることができなかったため、五月初めに越後の長尾景虎を頼って越後に没落した」と出てきます。

 

 ここでちょっと、説明に登場する家を増やします。

一つは赤井氏。館林を治めていた家です。

一つは横瀬氏(由良氏)。足利長尾が山内上杉の家宰職を取り戻して以来、足利長尾と強い結びつきのある家です。元々横瀬氏という名前ですが、後に由良氏に改めました。

横瀬氏は上杉方につきましたが、赤井氏は北条方につきました。

  • 永禄5年に館林城は落城し、赤井氏は追放。館林城には当長が入城。
  •  当長は、永禄8年までに横瀬(由良)成繁の二男を養子に迎えた。幼名熊寿丸、後の顕長。

横瀬(由良)氏の妻(つまりは顕長の実母)は赤井氏の出身である女性で、後に妙印尼と呼ばれます。一部界隈では「戦国最強ババア」などと評されている方です…。ネットで調べると「輝子」という名前が出てきますが、名前のわかる確たる史料はないようです。

館林市史の中では、この妙印尼が当長の館林入城について画策したのでは、というような仮説も書かれています。

ちなみに、横瀬成繁は永禄5年に由良に改名しています。

 

  • 永禄9(1566)年、上杉謙信は関東の勢力を挙げて北条方の小金城、臼井城を攻めるものの事実上の敗退。これにより長尾・横瀬(由良)を含め、関東の国衆の多くは北条方についた。

 今の感覚だと、あっちについたりこっちについたり裏切りすぎ!という感じなのですが、この時代の関東はこれが普通です。

自分の家だけだと攻撃を受けたときに対応しきれないから、いざというときに守ってくれる戦国大名の配下に入ります。逆に言えば、守ってもらえないなら守ってくれる人の下に移らなければ、自分の一族が滅んでしまいます。

 

関八州古戦録』という史料性の低い軍記には、臼井城攻めのときに顕長が先陣を務めたエピソードが記載されています。(足利市史より。足利市史ではこの出来事を永禄6年のこととしていますが、時代の比定が変わったのか別の出来事なのか…?)

 

  •  永禄11年、武田信玄が(今川の影響下である)駿河に侵攻した。北条は今川方につき、甲相駿同盟(武田:甲斐、北条:相模、今川:駿府の同盟)が破棄された。
  • 北条は、武田に対抗するために上杉に協力を持ちかけた。このとき仲介役を務めた二家の片方が由良氏
  • 永禄12年、当長が死去、顕長が当主に就任。
  • 同じく永禄12年中、越相同盟(上杉:越後と北条:相模)の同盟成立により、顕長は上杉方に。館林城は没収されたため、顕長は本領である足利に移動。

当長の死去と館林城の没収はどちらが先なのか、手元の資料だとよくわかりませんでした。

  • 元亀2年12月、北条と上杉は「手切れ」を宣言し、交渉断絶。武田と同盟。
  • 元亀3年中、顕長は上杉方である館林城の広田氏を滅ぼし、館林領を回復

元亀2年に北条氏康が死去しています。史料はないものの、北条と上杉の断交は、この氏康の遺言だとも伝えられているそうです。

上杉との仲介を務めた由良氏はこの断交に際して蚊帳の外に置かれ、元亀3年の年始まで知らなかったようで、抗議する書状と、それに対する北条方の弁明書状が残っているようです。2月に北条氏康と由良成繁が和睦の誓紙を交わした、とのこと。

  • 天正4(1576)年、北条が小山城を落とし、それを知った謙信は越山。由良氏の新田領・長尾氏の足利領の田畑を掘り返し、収穫できないようにしながら進軍した。これが謙信最後の越山となった。
  • 天正6年、上杉謙信死去

このあとはもう、カオス極まりなくて、出来事を書きだすだけでもうんざりしてくる感じです。抜き書きしてるので、もっと詳しく知りたい方は館林市史読んで…

  • 天正7年、武田氏と佐竹氏の間で反北条の同盟成立
  • 天正8年、由良国繁(顕長実兄)・長尾顕長は佐竹に呼応。4月までに藤岡城を奪取。
  • 同年、すぐに由良・長尾兄弟は北条方に復帰。佐竹・武田氏は(由良領国である)新田・(長尾領国である)館林を攻め、北条方劣勢となったため、由良・長尾は再び佐竹側(反北条連合)へ。
  • 天正10年、信長により、武田氏が滅亡。織田の取次役(外交官的なもの)である滝川一益に、由良・長尾兄弟含めた上野国領主は従った。
  • 同年、本能寺の変で信長死去。滝川一益は北条と戦い敗走。北条は徳川と対立し、天正壬午の乱勃発。
  • 同年10月、北条と徳川の間に国分協定成立
  • 同年、10月以前、10月、12月に、佐竹氏が館林・新田に襲来。
  • 天正11年、北条氏が大規模な軍事行動。これに対し反北条連合は由良・長尾を味方につけるため説得
  • 同年、由良・長尾は佐竹ら反北条連合につき、小泉城を攻撃
  • 天正12年、和議を結んだ直後の8月、北条は、合戦の原因となった由良・長尾を攻撃。一旦は引くものの12月に館林・金山城(由良領国)を攻撃。12月に開城。長尾顕長は館林領を、由良国繁は新田領を没収された。天正13年正月10日、顕長は北条氏直と対面し、服従を誓った。兄弟は足利・桐生へ移転。
  • 天正14年5月に家康が秀吉と和睦、上洛して秀吉への従属を示した
  • 同年11月、由良国繁は豊臣との合戦への備えを命じられた

この11月の「合戦への備え」については、簗瀬大輔氏の講演会最後のQAでちょこっと紹介してもらいました。「何月何日までに川のほとりに集合しろ。京の情勢はこのようになっていていつ何が起きてもおかしくない。領内の15歳~70歳の男子は徴兵対象である」という国繁宛の書状が残っているそうです。おそらく顕長に対しても同様だっただろうともおっしゃっていました。

なんでそんな話が出たのかというと、山姥切の本科とされる本作長義以下略の銘文内に、「天正十四年七月二十一日」に北条氏直からもらった、と書いてあるからですね。

講演会とかでリアルタイムにうまい質問思いつく方ってすごいですよね。

 

で、ちょっとここから手持ち資料がちょっとぶれてくるのですが…

  • 天正15年or16年、由良・長尾は北条に離反

講演会資料は天正15年になってます。で、館林市史では16年です。書状類の年代推定が変わったのか、それともミスプリなのかわからないですが、まあそんな頃です。

離反理由は、約束されていた褒章が受け取れなかったからではないか、というようなことが市史にあります。

  • 天正16年or17年、由良・長尾は北条に降伏
  • 天正17年、足利城破却

 降伏の年についても上と同じで、プリントと本が違うので、ちょっと私にはどちらが正しいのかわかりません。

城というと、石垣をつんだ立派なものを思い浮かべる方も多いとはおもいますが、ここでいう城は土づくりの城です。ビジュアルイメージとしては真田丸の序盤や、のぼうの城とかで思い浮かべてもらえばと思います。それを「破却」、つまり城として使えない状態にしてしまったそうです。

土の城についてのなんとなくイメージ、ドラマは見てないよという方は、アプリの紹介サイトなんですけど、ここの復元イラスト例がわかりやすいんじゃないかなと思います。

ぽちっと東国の城 - 復元イラストで戦国時代へトリップ

本の方がいい方には、アプリ監修者の入門本で図解 戦国の城がいちばんよくわかる本というのがあります。

 

  • 天正17年11月、北条方の沼田城代が名胡桃城を攻め落とした
  • 同年12月、秀吉は小田原征討を発令。
  • 18年正月6日、北条は領地内に動員令を出し、籠城を命じた。由良国繁・長尾顕長も小田原に召集された。

小田原征伐」と呼ぶことも多いですが、「征伐」は「悪者をやっつける」ニュアンスなので、現地に行くと「小田原合戦」と表記してあったりします。

山姥切国広の年紀は天正18年2月です。刀の年紀銘に刻まれるのは2月と8月が多いので、一定期間内に作ったものは皆2月(8月)と刻まれるのでは、みたいなことをおっしゃる方もいますね。

 

戦況が思わしくないために投降者も出た中、由良・長尾は最後まで北条方についたそうです。

だからまあ、忠臣解釈できなくもないかなぁ…。裏で秀吉とコンタクトとってたんじゃないかという話も講演で聞きましたが、根拠のある話ではないですし。

 

国広大鑑ではこのとき長尾顕長も切腹したように書いてますが、実際は生き残りました。

また、由良国繁・長尾顕長が小田原にいる間、母である妙印尼は前田利家の仲介で秀吉と通じ、籠城の功績として合戦後に領土を受け取りました。

籠城の功績ってなんぞやとなるんですが、秀吉からの手紙の訳を読んだ感じだと、由良国繁・長尾顕長は北条方についたけどそっちにつかなかったのエライ、って感じでしょうか。

 

長尾顕長の墓所は、足利市の長林寺内にある長尾家歴代墓所の中にあります。

長尾氏歴代墓所 - 足利市公式ホームページ

これがわかったのは確か山姥切展のちょっと前くらいみたいなことを現地で聞いた気がします。メモとってないのですが、歴代の他の方と同じ名前が彫ってあったのでわからなかったのだとか。(なんで確定できたのかも覚えてません…ちゃんと知りたい人は足利の教育委員会がそのあたりの調査やってるはずなのでそちらへ)

 

ざっくりとこんな感じですかね。

 

最新の研究動向をチェックするとしたら、顕長が治めた足利、館林に加えて、由良国繁の治めた太田、新田も対象にしたほうがよいのかなと思います。あとは古河のあたりも。

 

あと刀関連の研究だと、長尾氏・横瀬氏の受領名についても話題にされることがあるので、館林市史ベースでわかる部分を。

長尾氏は代々但馬守を、横瀬氏(由良氏)は代々信濃守を受領しています。

では顕長と国繁はというとよくわかりません。受領名まで記載のある略系図には記載がないので、受領名を受けてたとする根拠がないのかなと思います。

とはいえ、紹介されている史料のうち、山口県文書館所蔵『小田原陣仕寄陣取図』には「上総国上野国の誤り)由良信濃守」、肥前島原松平文庫所蔵の『小田原陣図』には「由良信濃」「長尾但馬」とあるので、このあたりを書いた人は受領名を受けてたと認識してたのではないかと思います。(豊臣方が作成したものを江戸時代に写したものと考えられる、とのこと)

足利市史』が掲載している『横瀬由良系図』という資料では国繁のところに信濃守、顕長のところに長尾但馬守と書いてあるので、古い研究だと受領名ありを前提にしていそうです。

 

あと刀剣系の古い論考の中に、横瀬氏の中にも同名の「国広」って人がいるから資料あさりするときには混乱しないように、みたいな記述がありましてね…

館林市史か関東戦国史のどちらか読んでて実際に出てきたと思うんですけど、どこで登場したかおもいだせないので、また見つけたら追記します…

 

 

一応、武将逸話系サイトをあさると、長尾顕長に関連する話も出てくるんですよ。カテゴリが他の方のところだから見つけづらいですが。

※逸話は「昔から伝わっている」話ではあっても「必ずしも事実とは限らない」ことはお留め置きください。なのでここから後は、あまりちゃんと追いかけたわけではない話になります。

iiwarui.blog90.fc2.com

 

iiwarui.blog90.fc2.com

 

 逸話系サイトでは妙印尼様とその孫娘が人気ですね。孫娘、忍城甲斐姫といいまして、とても武勇に優れたお方だという逸話が伝わっています。

…関東の戦国時代の女性って 女傑系の逸話が多いですね。

実在に関しての論がある方ではありますが、妙印尼の娘と成田氏の子ということになっているお方のようです。 

(なので妙印尼の子である国繁・顕長から見たら姪にあたることになる…はず。本来論を言うなら養子に出た時点でそっちのおうちの子扱いなので、血縁だけ見てどうこういう話ではないわけですが。あとこのあたりさらっと逸話レベルまでしか追ってませんので「輝子」の名前くらい不正確な可能性大)

 

 

あと、これは余談のようなものではあるのですが、上杉と長尾の関係性がわかれば、「長林寺の小豆長光」の記事についての印象がかわるのではないかなと思います。

前提としての歴史知識がないと「なぜ上杉の逸話がある刀を持っていたなどというんだ?」となるのではないでしょうか。

長尾家の宝刀「小豆長光」今どこに? 足利の長林寺に写真(1/2ページ) - 産経ニュース(2017.3.14 )

長尾家が明治時代、長林寺に小豆長光とされる刀を一時預けたもののすぐに返却。昭和42年に、刀は先祖が売ってしまったからと記念に写真を置いていった、という内容です。

どこの長尾かは書いてないですが、長林寺が菩提寺だというなら足利長尾なのでしょう。

刀剣会の方の談話として、反りから室町時代の刀ではないか、という話が載っているため、長光ではない可能性が高い(長光鎌倉時代の刀工とされる)わけなのですが、「そのように伝わった」こと自体が面白いと思うのです。

 

 

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