刀工 堀川国広についての史料・論考リスト
足利に行く前に集めた予習資料類と、その後で調べた資料類を一旦整理したいと思いまして。
素人が無理なく集めれた範囲のものなので、漏れは多分たくさんあるかと思います。今回は資料リストと、論を追いかけるのに重要そうなポイント程度の内容紹介だけ。
他の方の資料探しの助けになれば、という意図なので、史料も論考も、とにかく書いていますし、孫引きのものも記載しています。なんなら読み物系の本まで入っています。というわけで「論を追う」という意味では不要なものも入っています。
箇条書きで書いてあるのは、現在主流となる論と異なるものも多いですのでご注意ください。
私自身の興味が「事実を追及する」方向ではなく、「事実と考えられることを抽出する」「事実とはいえないが、そのように伝わった・解釈されたことを整理し変遷を見る」方向であるため、それに沿った資料類です。
ピンポイントで事実を追いかけたい方は『堀川国広とその弟子』がおすすめです。もちろんその後の論の変化は多少ありますが、現代につながる論がわかりやすい文章で書かれていて、なおかつデジタルアーカイブの図書館限定送信なので、大きめの図書館まで行けば誰でも簡単に読めます。最初の章を印刷しても12枚なので120円程度ですみますし。
基本的には、『国広大鑑』でそれまでの「不確かな資料を基にして推測を重ねる」論を一新しています。誤りが全くないとはいえませんが、現在につながる論です。(『堀川国広』とその弟子は、国広大鑑補遺ということで、『国広大鑑』に書かれた内容を要約しています)
郷土文献系による考察は、『日向の刀と鐔』が強いものの、この著者は史料批判が不足する傾向にあるため、事実を知りたいという目的であれば再検証が必要です。
歴史にかかわることは、刀の研究より研究が早く進みますので、各地域の歴史研究書を参照すべきです。
日向国伊東氏については、宮崎にレファレンス問い合わせをしたところ『宮崎県史 通史編 中世』『西都市史 通史編』などを紹介していただきました。取り寄せ貸出してもらうつもりなので、後日報告いたします。
長尾顕長については『館林市史』が比較的刊行も新しくまとまっています。
足利学校については…ちょっと未調査です。
あと、山姥切の逸話については別記事にしてます。
刀工国広に関する諸説について表形式でのまとめ、その前提にしておくべき話と補足を追加してみました。表の中身部分は「実際どうだかわからんよ」という内容だとお考えくださいまし。 pic.twitter.com/awDcG1oWm6
— セツカ@更新情報 (@waterseed_upd) November 12, 2018
■史料・論考(江戸~明治初期)
一応「史料」とか書いていますが、全体に史料性は低め。郷土文献は再検証が必要です。
『日向記』
「國廣本国作の刀に就て」『刀剣雑話』室津鯨太郎 著 内の引用より。
伊東氏の家伝で永禄年間に成立、天正18に増補。その後も増補があり写本間での誤伝・誤写がある。『天正少年使節』松田毅一 著内の説明より。
デジタルコレクションの図書館限定送信に、それらしき資料あったが未見。
江戸中期:『本阿弥行状記』
-
石田三成が国広に、正宗や行平の贋作を作らせた(下巻196段)
和田宗春訳にて確認
本阿弥行状記 和田宗春訳 はる書房 (2017/12/15)
天明3 内田正方の国広伝
- 三代続く刀鍛冶である
- 国広の代、伊藤家が敗れた後に京に出た
- 秀吉に仕え、石田配下として朝鮮に行き、戦功をたてた
- 子孫は伊藤家に仕えて今に至る
安政6 『慶長以来新刀弁疑』鎌田魚妙著
一書に、とあるのでさらに元ネタ資料あるかも?内藤久男訳にて確認
慶長以来新刀辨疑 現代語訳 内藤久男訳 里文出版(2018/5/1)
嘉永4『本朝鍛冶考』鎌田魚妙選
本朝鍛冶考 18巻. [2] - 国立国会図書館デジタルコレクション
[2]26コマ [4]78コマ
不明:『錦帯録』田丸信成著
「伊東満千世(満所)の侍従として豊後の大友家に寄寓していたことがみえるが、満所が少年使節としてローマに赴き、主君伊東義佑が亡くなったころから刀工としての道を歩み始めた旨の記述がある」『宮崎の文化遺産』
- 早くから満千世に仕え大友にいたが、満千世が渡航し伊東義佑が亡くなって、鍛冶となった。
- その後足利学校に行き、さらに京に行ってから名声が広がった
- 慶長19年、84歳で亡くなった
- 二代は関鍛冶大道が継いだとか
『日向私史』平部橋南著
- 天正中に京に行き、明寿の弟子となった
- 正親町天皇が名声を聞き、刀を作らせ、信濃守の受領名を与えた
- 元は広実という名だったが、人を殺して逃げた
- 上杉で隊長として北条と戦い、吉広作の槍を褒賞にもらった
- 石田三成配下として朝鮮に行った
- かつての主家が飫肥に封ぜられた後、京都堀川に住んで刀を作ることを仕事にした
- 慶長19年没
原文未読。『新刀名作集』内の引用より。 著者は幕末~明治の人物
■論考(戦前)
基本的に日向私史を肯定的に扱い、そこに書いていない部分をどう考えるべきか検討しています。その過程で、現在では真作として扱われる作品が、贋作扱いされることもありました。
国広の移動については日向→京都→足利→(釜山→)京都
なお、著者が本名で書いたり号(ペンネーム)を使ったりしていて若干わかりづらいですが、高瀬真卿=高瀬羽皐 川口陟=室津鯨太郎 です。
明治31~34 別役成義, 今村長賀による刀剣講義→『剣話録』
- 本朝鍛冶考の押形と尾張徳川の本作長義(以下略)の銘文を紹介
「國廣本国作の刀に就て」『刀剣雑話』室津鯨太郎 著 内で『剣話録』今村長賀氏の論として引用している文章と、表現等異なります。
おそらく、謄写版のほうを参照しているものと思います。
(謄写版の原本は国会図書館にあるらしいので、本当に検証が必要なかたはどうぞ)
→『刀剣雑話』内の引用部は、国広の項ではなく、東山道の項でした。
参考:昭和53年『今村別役刀剣講話』辻本直男監修
1903:明治36『堀川國廣考』谷干城
- 埋忠の門人となったとする説に軽く懐疑
「國廣本国作の刀に就て」『刀剣雑話』室津鯨太郎 著 内で引用。全文とのこと。
大正3年9月「堀川国広に就いて」『刀剣と歴史48号』高瀬羽皐
大正5年12月「國廣本国作の刀に就て」『刀の研究2巻12号』室津鯨太郎
山伏国広について、作風は国広のものだが、それまでの論考と銘の内容が矛盾するため、旧説に対して疑問を呈する論考。
『堀川國廣考』谷干城、「堀川国広に就いて」高瀬羽皐、日向記、『剣話録』今村長賀を引用
- 主家滅亡後すぐ上京したのではなく、日向の山中にいたのではないか
- 主家再興後に許しを得て上京し、明寿の門人となったのではないか
- 明寿への弟子入りは技術取得を目的としたものではなく、名門の弟子という立場を得るためのものではないか
- 日州住と切ってあっても、必ずしも日向で作刀したとは限らないのではないか
- 山伏の銘にある飯田氏の略歴と、飯野に伝わった国広の略歴を伝聞として紹介。
→刀剣雑話に収録
大正7年8月「国広と忠吉に就て」『刀剣と歴史95号』高瀬羽皐
神田白龍子による、国広数代説否定論を紹介
大正8年7月「堀川国広論」『刀剣と歴史106号』高瀬羽皐
鎌田魚妙・白龍子による作品評と谷干城による国広考の紹介後、一部に対して懐疑的な記述。大枠は大正3年のもの同様
大正9年5月「堀川国広に就て」『刀の研究6巻5号』川口陟
→刀剣雑話に収録
大正9年7月「堀川国広に就て(二)」『刀の研究6巻7号』川口陟
→刀剣雑話に収録
大正10年『新刀鍛冶綱領』神津伯
日向私史ベースの解説
大正12年7月「堀川国広は誰の門人なるや」『刀剣と歴史154』高瀬羽皐
「明寿への弟子入り」を懐疑的に見る文章
(1923:大正12年 9月関東大震災発生)
1925:大正14『刀剣雑話』室津鯨太郎 著
刀の研究に掲載された論考を収録
「國廣本国作の刀に就て」
「堀川国広に就て」
1927:昭和2『堀川国広考』中央刀剣会 編
- 国広の名について「通称角左衛門又安兵衛ともいう」
※山伏国広の写真掲載。11コマ
論考ラストに、足利の鑁阿寺から出品された押形で、同地方在留中の作刀で土山と銘して「ひぢりやま」と読ませているものがあり研究がいる、との記載。この本に掲載あるのか未確認なので今度図書館行ったら探してみます。
1928:昭和3 『新刀名作集』内田疎天, 加島勲 著
『日向私史』、『錦帯録』、『堀川國廣考』谷干城を主に取り上げた論
他、古藪常夫氏、高瀬氏、小藪氏の論を引用。
- 他国で作刀し日向住と銘にある例として山姥切国広を紹介
※山姥切国広の押形掲載。125コマ
不明:「堀川国広集説並私考」『剣甲新論』
冒頭で、内容は新刀名作集内の論考と同じである旨が記載されている
昭和5『新刀古刀大鑑』川口陟
国広複数代説を採用。
明寿門下・釜山作刀を否定。
新刀古刀大鑑. 下巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
1935:昭和10「堀川国広考」 『日本刀物語』前田稔靖 著
内田正方の国広伝(天明期)、錦帯録と実際の刀をベースとした解説
- 日向私史の「上杉の隊長」は長尾顕長配下の誤りではと指摘
昭和10年『日本刀通観』内田疎天
ベースは新刀名作集同様の内容。
昭和10年11月「日向鍛冶余録」『歴史公論4巻1号』大迫安敏
日向私史と郷土の口伝をもとにした文章。
田中家に伝わった「国広が使った鍛冶道具」とされるものの写真を掲載している。
(なお実物は戦時中に供出したため現存しない。参考:福永氏著書)
昭和14年7月『刀剣之新研究』清水考教
日向私史ベースの解説。明寿を師とすることについては否定的。
川口陟『刀剣銘字典』掲載作品について(足利学校打含め)否定的。
1940:昭和15『日本刀研究の手引』神津伯
作風解説
■論考(戦後)
紙資料よりも銘文を重視する姿勢に変わりました。
国広の移動については日向→足利→(釜山→)京都
なお、佐藤貫一=佐藤寒山 です。
昭和28年2月「堀川国広の問題」『刀剣美術19号』佐藤貫一
それまでの研究総括と、銘をもとに見た場合の疑問と、新たな研究に向けての出品依頼。
この時点で山姥切国広は焼失扱いされている。「山姥切と号する天正十八年作の長義写の刀も焼身でもよいから是非見たいと思うが、大正震災後はどうなったものであろうか」
昭和28年4月「国広雑談」『刀剣美術20号」神谷紋一郎
エッセイ寄りだが、押形をもとにした考察が含まれる
昭和28年6月「堀川国広の研究」岸本貫之助
5月に行われた大会(鑑賞会?)で行われた研究発表会の発表内容要旨。
昭和29年3月「堀川国広について」『刀剣美術26』佐藤貫一
3月に行われた後援会の概要
(話し言葉。速記ないし録音の書き起こしか?)
1954:昭和29 『国広大鑒』日本美術刀剣保存協会
「国広伝として従来あるものは、多くは伝説的で信憑性に乏しい」と旧説を批判。また、江戸時代の文献についても「今日から見れば誤謬が目立ち、真に参考となるものは少ない」と書いています。
実際これ以前と以後で、論のベースががらっと変わっているので、現代における認識の大本を調べたいなら、これか、『堀川国広とその弟子』を調べればよいと思います。
- 明寿への入門説を否定。受領時期についても天正6,7年説を否定
- 三成の命による贋作作刀を否定
- 広実が旧名であることを否定
昭和30『日向刀工伝』宮崎県立博物館(福永酔剣)
(まだちゃんと読めてません。ざっくり見た感じ『日向の刀と鐔』と同じ感じ)
昭和31年7月「国広大鑑補遺」『刀剣美術40』佐藤貫一
大鑑発行後に発見された二口について
※この時点では山姥切国広について未掲載。
1962:昭和37 『堀川国広とその弟子』佐藤貫一 編
※山姥切国広の写真掲載。111コマ
昭和38年3月「洛陽一条堀川と二、三の堀川物について」『刀剣美術80』菅原一衝
「洛陽一条堀川」というエリアの話と、著者が実見した堀川物の刀について
1969:昭和44「国広大鑑補遺」『寒山小論文集』佐藤貫一著
刀剣美術40号に掲載された同題の小論文へ大幅に加筆をしたもの。
初出時にはなかった山姥切国広についての記載が増えています。
昭和50『日向の刀と鐔』福永酔剣
郷土文献ベースによる考察を主軸としています。
戦前の論考と比べれば資料比較によって妥当なものを採用しているように見えますが、この著者は全体に史料批判が不足する傾向にあるため、再検証が必要と思います。
昭和55年3月「堀川国広天正打時代雑考」『刀剣美術178』堀内克己
島津氏により打撃を受けた日向国伊東氏と、後に飫肥に封された伊東氏は血族ではあるが家臣・組織・行政のいずれも別個のものであり、「国広が飫肥伊東家に仕えた」とするのは誤りであると指摘している。
2003:平成15「名刀流転ー堀川国広の脇差『布袋国広』-」倉沢昭壽『足利文林』58号 足利文林会編
足利での山姥切国広展パンフレットの主要参考文献に記載されている。
足利学校打の脇差の彫物についての話は山姥切国広展パンフレットで初めて見かけたので、このあたりの論が出典じゃないかなと推測します。あっちの図書館行ったら読めるかな…?
2014:平成26『堀川国広とその一門』堀川国広とその一門展実行委員会
銘をベースにした論考を掲載
■エッセイ ・読み物
大正2年4月「新刀十哲のこと」『刀剣と歴史31号』高瀬羽皐
江戸時代における評価の総括
大正4年3月「新刀の名作に就て」『刀剣と歴史31号』高瀬羽皐
江戸時代における評価(美的観点中心)に対する異議(実用性による評価)
大正7年2月「掘出し帳 鍬の屋の堀川「侯爵国広」」『刀剣と歴史89号』
掘出しものを見つけた、という紹介文。長さ二尺で在銘「信濃守藤原国広」とあり直刃
大正15年7月「国広を謳歌す」『刀剣と歴史187号』靖堂
国広会と題した大鑑賞会についてのエッセイ
昭和26年「山伏国広」『刀剣美術7号』本阿弥光博
愛刀紹介エッセイ
昭和28年7月「国広を中心とした鑑賞会」『刀剣美術22号」K生
昭和22年に行われた鑑賞会の感想
昭和29年6月「国広展と国広大鑑に寄す」『刀剣美術27号』著者複数
展示および本の感想
昭和29年6月「堀川国広展を見て」『趣味のかたな 4』猪坂直一
昭和29年7月「幡枝の国広に就て」『刀剣美術28』岸本貫之助
大鑑と展覧会のために刀を借りたときについてのエッセイ
昭和29年11月「国広あれこれ」『趣味のかたな 5』敷田政治
刀の購入についてのエッセイ
昭和37年1月「堀川国広の建碑について」安藤舜之
宮崎の天神山公園に碑がつくられた経緯について
1962『日本名刀物語』佐藤寒山 著
- 山姥切国広の再発見経緯
昭和41年3月「おもしろ帖 珍銘 田中国広についての私感」『刀剣美術110』小笠原信夫
篆書風の銘がある刀について
昭和45年4月「堀川国広の変り銘脇差」『刀剣美術159』佐藤寒山
銘字が他と比べて横に長い脇差について
昭和52年6月『小田原の刀剣』横田考雄
読み物本。山姥切国広について佐藤寒山氏の説をベースに紹介している。
■番外
- 戯曲『世乱直刃国広(よはみだれすぐはのくにひろ)』福島靖堂 という作品がある。(新刀名作集より)実演できるかわからないが、という書き方なので、雑誌か何かに掲載されたのか?
- デジタルアーカイブで「国広」と検索すると、『怪談と名刀』の「巣仙国広」というのが出てくるものの、「元和二年の裏銘」とあるので別刀工さんないし偽銘じゃなかろうか
- ネットで見かける「伊東マンショを背負って逃げた」云々の元ネタは見てません。調べるとしたら郷土研究系か伊東マンショ研究系じゃなかろうか
- 『国広、足利で打つ』磨知享著の小説。山姥切国広展のときに美術館でぺらっとめくって噴き出して、そのままお買い上げした人は結構多かった