鯰尾藤四郎の記録に該当しそうな逸話を調べた話
今回の話、まじめにまとめたものは去年、天下人の城応援団記事として書かせてもらったのですが、発表の場が場なので私自身が思ったことは極力書かないようにしたり、本筋である「展示品の紹介」から外れるようなことも削ったりしてまして…
要は、そのあたりのことも含めて書きたくなりました!
去年の記事内にも書きましたが、今回の話は「歴史と呼ぶことはできない、ロマンの範疇の話」であることはご了承ください。
見つけた逸話は、史料的価値が低いとされるものであり、またそもそもの発端である「尾張家の記録」も、史料的にどうなのか、私は知らないからです。
…と書いても、歴クラ見習いになる前の自分なら意味がわからなかった自信がありますので、過去の私と同じような方々に向けてもう一段解説を。
歴史史料の類は、そこに書かれているから正しい内容である、とは限りません。
離れた場所で書かれたものや、時間がたってから書かれたものであれば伝言ゲーム的な間違いがあるかもしれません。
戦略的な理由で嘘を書いたり、現代の履歴書の如く、小さな出来事を水増しして書いたりしていることだってあります。
なので「史実である」ことを主張するときには、その元ネタの確かさを検討しないといけないわけですね。
(確かさが低い場合から常にNGというわけではなく、その場合他の資料と合わせて妥当性があるからOKとするようなこともあるようで…細かい基準は専門の方におまかせします…)
今回の話は、発端について確かさが不明、見つけた逸話については確かさが低い文献です。
更には、状況的に矛盾せずにおさまるものの、逸話側には刀の名前が出てくるわけでもなく。
ということで、歴史ではなくロマンの範疇である、という前置きをさせていただきました。
(まあ、刀剣逸話系って大抵、文献の史料性でいくなら似たり寄ったりな状況だとも思ってますが。)
ということで、まずは事の発端。
尾張徳川には、鯰尾藤四郎について「人を斬った記録がある」という話は展示解説などで何度も出てきているため、知っている方も多いかと思います。
信長の二男、信雄が重臣・岡田重孝を刺殺した刀とも伝わる。
いつごろの蔵帳から書かれるようになったか、なんてのも気になるとこではありますが。
特に古い時代の蔵帳だと、刀の号と付属品有無くらいしか書いていないようですので。
で、実はこれと同じ内容の逸話を持つ刀がほかにもあります。
号もまさに「岡田切」と、わかりやすい名前がついております。
切ったのどっちー?ってなりますよね。
そしたら逸話本の中に、どっちも成立させられるんじゃ…?というものがありましてね。
国立国会図書館デジタルコレクション - 英雄と佩刀(126コマ~)羽皐隠史 著 大正1年
土方大力にて岡田を強く抱きて脇差を抜かせず(中略 )「大事の場合で御座る私基に遊ばされよ早く早く」と言ったが流石に土方まで斬ることもできぬ刀を抜いてまごまごしている
…この手の、味方がつかまえてるうちに味方ごと倒せ!って展開ってどのくらいの時代のお話から普及してるんでしょうね。
まあそんなことは置いておいてですね…。
其うち勘兵衛手早く短刀引き抜き岡田が脇腹一刀刺通しながら突放す。そこを信雄一太刀切る。
前後も含めて要約すると、該当の場面、信雄の部下が岡田にしがみついて「自分ごと斬りなさい」とやったものの信雄はその状態では斬れず、部下はどうにか短刀を抜き、岡田の脇腹を刺した。そこを信雄が斬った、というような描写がされています。
この本を読んで、これは元ネタ本を読んだらひょっとしたら書き方違うのでは…?と思ったのが探してみようと思ったきっかけでございます。
短刀と脇指って、現代の基準だと長さで明白に区別ができますけど、古い資料だと現代でいうところの短刀のことも「脇指」って書いてあります。
なら逆に、読み物本にするにあたって「脇指」が「短刀」に置き換えられても不思議ではないなと。
あと、同じ本の20コマ目からの話題に燭台切の話が載ってましてね…
その文章の最後が
この刀今以て水戸徳川候の宝蔵にある二三年前夏のお手入れの時拝見したが言語に絶した名刀である
華族のお宅でお刀を見せてもらえるような立場の方ですよ。いい加減なことはできないだろうから、何かしらの元ネタはありそうだなと。もちろん現代的な観点で適切かどうかは別にして、ですが。
…じつはここまでは2016年のうちにたどり着いてました。
が、どうやって調べたらいいか思いつかなくて放置して…そのまま忘れてました。
で、応援団に参加することになったところでこれを思い出しまして…今度は図書館のレファレンスサービスの存在もあわせて思い出したので、問い合わせをかけてみたのです。
まさか本当に見つけてくれるとは。
自動返信で「10日をめどに回答します」とあったんですけど、本当にそのくらいで返してくれました。
『常山紀談 巻六』湯浅元禎(常山)/編 元文四(1739年)刊
「織田信雄長臣を誅せられし事」ではないか、とのことで。
原文そのままが掲載されているものと合わせて、現代語訳が掲載されている『戦国武将逸話集―訳注『常山紀談』巻一‐七』も紹介してくれました。
ネット上でも見れますよ。明治期の活字版なのでちょっとよみづらいですが。
国立国会図書館デジタルコレクション - 常山紀談. 巻之1-8 (141コマ~)
多少崩した字がいける方はこちらのほうが読みやすいかも
早稲田大学図書館古典籍総合データベース 常山紀談. 巻之1-20 / 湯浅元禎 輯録
問題の場面は、3冊目の43~45pにあります。
とりあえず引用はデジタルコレクションのほうから。
信雄土方放せ、我自ら斬らん、と詞を懸けられしに、臣と共に斬らせ給へとて放さず。信雄放たざれば何時までも斬るまじと云われしかば、土方岡田を突き放しざまに小脇指を抽いて刺し通せば、信雄すかさず斬って殺されたり。
読んでみるとたしかに羽皐氏の文章は、常山紀談の内容に、当時の歴史認識を上乗せしてお話に仕立て上げた感じがしてきます。
そして問題の場面、表記は「小脇指」となっておりました。
ということでひとまずクリアでございます。
あと実は、羽皐氏のお話では刀が後に岡田切と呼ばれる一文字、岡田が持っていた脇指が関の和泉守兼定(=之定)と書いてあるんですけど、常山紀談には岡田の脇差が七つ胴切り落としであることまでしか書いてなかったりなど。
ここまで書いておいてなんですが、私「これは間違いない!」などと言うつもりは毛頭ありません。
二つの逸話が矛盾してるように見えるけど、両方クリアできそうな逸話も見つけたよというところまでですね。
理想をいうならさらに古い史料類にないかとか探したいところなのですけどね。脇指が示す範囲の整理とかも。
なんだか別バージョンのネタがありそうな気はしてるのですけどね。
戦国ちょっといい話悪い話というまとめサイトにあったこの話とか、ぱっと見同じ内容かと思いきや、行動の時系列がちょっと違ったり。
出典が書いてないので追えないのですけど。
さらになんと、とどめを刺すのに使われた刀が違うバージョンもあるんですよね(笑)
デジタルアーカイブの中に本の序も掲載されておりまして、天保の庚子と書いてありました。調べたら天保11年(1840)のことだそうです。
なので常山紀談より後ではあるのですけど、私、こういう伝言ゲームの末みたいな状況を見るのが大好きなもので。
国立国会図書館デジタルコレクション - 伊勢国司記略 (序:23コマ~ 三重臣の処断:155コマ~)
土方飛びかかって抱きつき、片手に短刀を抜いてこれをつく。岡田つかれながら土方を引立て、脇差を抜く。三介大左文字の刀をぬき持ち、岡田を斬らんとて雄久はなせとのたまへど、大事の仕物なれば放ちがたし、とく某もろともきり給へといえど、しきりに放せとのたまへば、二刀突いて放つ。三介即きりとめ給ふ。
三介は信雄の通称です。
やっぱり状況が、微妙に違ってるんですよね。面白い。
ちなみにこちらだと、岡田が自慢しているのは「無双の業物」の短刀で、抜いて見せている。これまた微妙なディテール違いが発生しております。
ちなみにこの織田信雄という人物、従来は「信長の残念な息子」として扱われてきたのですが、近年評価が見直されつつあるのだとか…